2024年5月25日土曜日

武士道 新渡戸稲造 文語文に慣れてきた

 

今、新渡戸稲造の武士道を読んでいるが、かなり難しい英語である。
何しろ、概念として説明するのが難しい武士道をあえて説明しているのだから難しい文章になるのは仕方があるまい。 
 
 この英文を読むにあたり、私は二つの日本語訳を用意した。
 矢内原氏のものと櫻井氏のものである。
 どちらも現代の文章とは一味違う文語調である。
 櫻井氏のは完全な文語文。
 
 この手のものは、まず旧漢字、歴史的仮名遣いに慣れないとどうにもならない。
 また、この手の言い回しに慣れないとなかなか読み込めない。
 しかし英文解釈ですごく大変だから、この手の訳も何度も読むことになる。
 
 すると最近、慣れてきた。櫻井氏のバリバリの文語文も自分にとっては読みにくいものでは なくなってきた。
 これも英語のお勉強の効用であろう。
 これは何か。
 
 世の中に立つのに必要なものは教養である。
 教養とは文章であり、文章とは言葉である。
 言葉に通じると「教養がある」と世間では言われるのである。
 教養がある、とは何か。これは「人間力」だと思う。
 人間力とは簡単に言うと「馬力」である。 
 漢字や文語文に通じてくると、どうも最近の現代人。
 あくまでも私の主観であるが、文字を書くのも読むのも携帯で sns だけ、たまに Yahoo News という人が多いのだが、脾弱に感じるのである。 
 現代人にこそこのような訓練が必要なのではないだろうか。 
 現代人に必要なのは、5択の英会話の問題を解くことではないのだ。


 武士道は難しい英語かもしれない。
 しかし、これを読み込むことにより、英語力だけでなく、日本語力も身につき、
同時に教養も身に付く。
 何よりも、「武士道」という概念について自分なりの知見を深めることができる。
 一石三鳥である。
 これこそが効率の良いお勉強というものであろう。

The domineering, self-assertive,  so-called master-morality of Nietsche, itself akin in some respects to Bushido,  is, if I am not greatly mistaken, a passing phase or temporary reaction against what he terms,  by morbid distortion, the humble,  self-denying slave-morality of the Nazarene. 
 
英文訓読法で完全理解

 
矢内原訳:ニイチエの所謂事制的・自己主張的なる主人道徳は、或る點に於ては武士道に近い。併し乍ら若し私にして甚しく誤つて居ないならば、之は同じくニイチェが病的なる歪曲によりて、 ナザレの謙遜なる、自己否定的なる奴隷道徳と呼びたるものに對する一の過渡的現象 若くは一時的反動である。
 
パソコンによって出ない文字もあるので一応スクショしたものも載せておきます
 
矢内原訳を私が現代仮名遣い、新漢字で書き換えたもの
ニーチェの所謂(いわゆる)横暴で・自己自己独断的な主人道徳は、ある点に於いては武士道に近い。しかしながら、もしし私が大きく間違っていないならば、これはニーチェが病的なる歪曲によって、 ナザレの謙遜で、自己否定的な奴隷道徳と呼んだものに対する一の過渡的現象、あるいは一時的反動である。
 
櫻井訳 文語文
或は武士道に髣髴たるもの無きに非らざ る、ニーチエの專權自彊なる主人道德は、若し予にして大過なくんば、即ち彼が又た病的曲解を以て、ナザレ人耶蘇の謙遜克己の奴隷道德と名くるものに抗する一時の反動なり。過渡の現象なり。  
 
 

矢内原先生の訳本

 やわらかな暗記






最後はやわらかな暗記で締め、である。
これをやることにより、英単語、英語表現をマスターすることができる。
何よりも、不思議なことに内容について理解が深まる様である。
 

2024年5月5日日曜日

読書の仕方 松陰先生と私

 

先の記事で重厚な本はしっかりと読まないと分からない、と述べた。 
重厚な本 いろいろあるが、武士道もその一つ。
これは、sns の書き込みを読むように読める物ではない。
しっかりと体に刻みつけるように読まなくてはいけない。 
どうするか、というと私の提案だが、「やわらかな暗記」も併せて行うべきだ。
 そうして、ゆっくりとであるが着実に進まなくてはならない。 
 その例を示す。
 
まず、英文訓読法でしっかりと理解する。

そしてこれを埋められるように努力する。その過程で、この難しい英文も、そしてそれと同じくらい難しい日本語訳も、あまり見慣れていないかもしれない、正漢字、歴史的仮名遣いにも慣れてくる。 
 このような過程を経て、「教養」というものが身につくのである。
 「教養」が身につくとどういうことが起こるか、というと、世の中の真理を見通す力が身につくのである。
 そのような力を身につけることは、武道の稽古をすることと同じ。
 このような「稽古」こそが身を助け、人生を大きくするのである。 

吉田松陰先生も似たようなことをおっしゃっている。
 

2024年5月3日金曜日

武士道を再びやってみた

いろいろなプロジェクトをやっているが、飽きるからである。
孫子行くぞ と思ったが疲れてしまった。
そして映画に脱線した。
映画も飽きてきた。
前にやった武士道を見返している。


武士道 新しいやり方を思いついた。画期的だ。
 訓読法を用いるが、大きく分ける。
 その下に、矢内原の訳を当てる。
 進むし、わかりやすい。
 日本文も英文もかなり高度なので一文一文しっかりと読まないと何を言っているのか分からなくなる。
 逆に英文をきちんと理解しようと思って日本文を読むと日本文もきちんと読めるので理解が深まる。

 新渡戸稲造 武士道 第17章 武士道の将来 より

 

 勝ち誇れる平民主義の抵抗し難き潮流だけでも、武士道の遺残を呑むに足る力があつた。蓋し平民主義は如何なる形式若くは形態のトラストをも許容しない。然るに武士道は知識及び教養の豫備資本を獨占する人々によりて組織せられ、道徳的諸性質の等級及び質値を定むるトラストであった。
 
 
 
この文章もけっこう難しく、私がスラスラ分かるのか、と言えば、分からない。
ただ、ちょっと根気良く読むと分かってくる。
英語も日本語もだ。 
 
このような努力をして一文ずつ読んでいく。
それが「読書」ではないかな。
そのような訓練を重ねると教養が身につく。
そうすると物事の真理が見えてくる。
そのような人の中から大業を成す人が出てくるのではないかな。
 
私は、どうも大業を成せはしないようだ。
でも例えばここでいろいろな英文を紹介している。
映画から孫子、武士道、老人と海 などなど
それは何故かというと、皆さんにこのような「読書」をするお手伝いをしたいからである。
そのような気持ちである。いろいろ考えるとそうなのだ。
そして、皆さんの中から大業、偉業を成す人が出てれれば良いな、と私は思っているのだろう。
 
 そうすれば、我々日本人の暮らしも良くなると思う。
 私のやっていることはそのお手伝いなのだ。
 

 

2024年4月30日火曜日

武士道 新渡戸稲造 文語文に慣れてきた

  今、新渡戸稲造の武士道を読んでいるが、かなり難しい英語である。 何しろ、概念として説明するのが難しい武士道をあえて説明しているのだから難しい文章になるのは仕方があるまい。     この英文を読むにあたり、私は二つの日本語訳を用意した。  矢内原氏のものと櫻井氏のものである。 ...