むかしむかしの春秋時代。
晋の平公(在位前557〜前532)さまが師曠にお訊ねになった。
吾年七十、欲学、恐已暮矣。
吾年七十、学ばんと欲するもすでに暮れんとするを恐る。
「わしは今年で七十歳じゃ。勉強しようかと思うが、もう遅いであろうなあ」
師曠が答えて申すには。
何不炳燭乎。
何ぞ燭を炳(とも)さざるか。
「どうして灯りをお点(つ)けにならないのか」
ちなみに師曠(し・こう)は曠という名の晋の楽師で、盲人である。
いにしえの君子は食事や職務の際、音楽に合わせて行うのが習いであったから、楽師は身分は低いが常に君側にあってその諮問に答えることがあったのである。
「なにを言っているのか?」
平公、意味がわからないので、むっとしまして、
安有為人臣而戯其君乎。
いずくんぞ人臣たりてその君に戯る有らんか。
「臣下のくせに主君をからかうとはなにごとじゃ」
と叱った。
師曠言う、
盲臣、安敢戯其君乎。
盲臣、いずくんぞあえてその君に戯れんや。
「めしいの臣下が、どうしてわざわざ御主君をからかいなどしましょうか」
そして居住まいを正して言うには、
臣聞之。少而好学、如日出之陽、壮而好学、如日中之光、老而好学、如炳燭之明。
臣これを聞けり。少にして学を好むは日出の陽の如く、壮にして学を好むは日中の光の如く、老にして学を好むは燭を炳(とも)すの明の如し、と。
「やつがれはこのように聞いたことがございましてな。
若いうちに進んで勉強するのは、日の出のころの太陽のようなもの(で、どんどんまわりが明るくなってくる)。
大人になって進んで勉強するのは、日中の光のようなもの(で、そのおかげで遠くまではっきりとよく見ることができる)。
年老いて進んで勉強するのは、ともしびの光のようなもの(で、自分が行動する範囲だけはよく見ることができる)。
と。
やつがれは目が見えぬゆえわかりませぬが、殿は
炳燭之明、孰与昧行乎。
炳燭の明、昧行といずれぞや。
ともしびの光があるのと、真っ暗闇を歩くのとでは、どちらがよろしうございますか?」
平公はうなずいて、
善哉。
善いかな。
「なるほど、よくわかったぞ」
とおよろこびになった。
http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.27.02.20.htm
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