あまりにも大きなもの、明らかなものは逆に人の目には見えないことがあるのかもしれない。
ある人がインド北部に行きそこの村人に尋ねたという。
「エベレストはどこにあるのか?」と。
その村人は北の方を指差した。
なるほどそこに大きな山があった。エベレストである。
この人にはエベレストがあまりにも大きすぎて逆に見えなかったのである。
この世の真理も同じこと。
全てがますます混沌としている。
明日が見えにくい世の中である。
そのような世の中でも我々は生きていかなければならない。
そのためには何か必要か。
それは教養である。
あまりにも明らかであろう。
エベレストのように大きく明らかで、逆に見えない人が多いのではないだろうか。
教養のあるものが浮かび上がり、ないものは沈んでゆく。
これはゆっくりと起こるものである。
しかし、10年くらいでその変化は見てとれるものである。
では、教養とは何だ、ということになる。
教養とは、文章であり、文章とは言葉である。
どうすれば良いのか、というと、本を読むと良いのである。
本など無数にある。
どれが良いのか、ということになる。
あえて言えば、論語 か 孫子 である。
これをただ、ペラペラと読むのではなくがっちり読むのである。
どちらもSNSの掲示板ではない。重厚な文章である。
私は以下のブログに書いた様に読んでみた。
暗記に近い状態 いわゆる「やわらかな暗記」で読んでみた。
これで全部が分かるわけではないが、明らかに論語が、孫子が体の皮膚から染みこんできた。
参考ブログ 孫子兵法を英語で読むという新しい試み
孫子の解説書は本屋に行けば山ほど売っている。
色々なことが書いてある。
今までの戦争を例に挙げて孫子のいろいろな文章を解説したり
身近に起こりそうな事例を挙げて、孫子の文章を解説したりしている。
それなりの学識者が立派に解説をされていると思う。
しかし、残念ながらそのようなものを読んでも身にはつかない。
繰り返して読まないといけない、と申し上げたがそれでは退屈であろう。
この度、これに英語訳もつけてみた。
英語訳は主にGiles氏のを用いた。これは著作権が切れているのである。
しかし、それにしても難しい英語である。
Nativeである上に、相当の学識者である。
当たり前であるが私何ぞより、はるかに英語はご堪能である。
しかし、彼らにとっても難しいものであるのだろう。
ちょっと彼らなりの余計な解釈をつけすぎている様に思った。
漢文の文章は本来簡潔なものである。
ごちゃごちゃとは書いていない。
もっともそこに色々な意味を含ませているのが奥深いのであるが・・・
でもそれを日本語にしたり、英語にしたりするときに、この簡潔さを保存しなければならないと私は考えている。
そのことに配慮しながら、簡潔な文章で訳することを心がていこうと思う。
漢文、英語、そして何よりも孫子を読むというのは大きな財産になる。
良い本を読むことは一生の財産なのだ。
それが世の中で浮かび上がる「浮力」となるだろう。
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