2024年3月14日木曜日

孫子兵法の英語翻訳者  S. Griffithについて

 S. Griffithについて

https://en.wikipedia.org/wiki/Samuel_B._Griffith
サミュエル・ブレア・グリフィス2世(Samuel Blair Griffith II、1906年5月31日 - 1983年3月27日)は、アメリカ海兵隊の准将。米国海軍兵学校を卒業後、1929年に海兵隊に入隊。第二次世界大戦の太平洋戦線で海兵隊部隊を指揮し、1956年に退役。退役後、グリフィスは戦史に関する数冊の本と数多くの記事を執筆し、広く講演活動を行った。1983年3月27日、ロードアイランド州で死去。
 
生い立ちから第二次世界大戦まで
グリフィスは1906年5月31日、ペンシルベニア州ルイスタウンに生まれた。1929年にアメリカ海軍兵学校を電気工学の学士号で卒業すると、アメリカ海兵隊の少尉に任命された。第二次世界大戦前には、第二次ニカラグア作戦に参加したほか、中国、キューバ、イギリスで勤務した。1935年から1938年まで北京のアメリカ大使館で中国語を学び、中国語をマスターした。
第二次世界大戦中、イギリスとスコットランドでイギリスのコマンドー訓練を見学した後、第1海兵師団に戻り、ガダルカナルで第1海兵レイダーズ大隊の幹部、後に司令官を務め、ニュージョージアでの作戦では第1レイダー連隊の幹部も務めた。1942年9月、ガダルカナルでマタニカウ川付近での戦闘中、「極めて英雄的な行為と勇気ある職務への献身」により海軍十字章を受章。この戦闘でグリフィスは負傷し、パープルハートを授与された。7月のニュージョージアでの活躍により、殊勲十字章を授与された。
 
戦後のキャリア1946年から1947年まで中国の青島で幕僚を務め、激化する中国内戦を最前列で観察した。第二次世界大戦後の華北占領に参加し、第3海兵連隊、後に青島駐留米海兵隊を指揮した後、1947年から1950年までニューポートにある米海軍大学校の学生、教員を務めた。1951年から1952年まで大西洋艦隊海兵隊参謀長、1953年から1956年まで欧州司令部参謀。25年以上の現役生活を終え、1956年に海兵隊を退役した。
 
退役後の経歴退役後、グリフィス将軍はオックスフォード大学(ニューカレッジ)に入学し、1961年に中国軍事史の博士号を授与された。第二次世界大戦前にさかのぼる中国と中国語への関心から、1961年には毛沢東の『ゲリラ戦について』を、1963年には孫子の『孫子の兵法』を翻訳した。後者は単なる翻訳ではない。孫子の伝記、本文の変遷、戦国時代、古代の戦争、毛沢東の軍事思想との比較などの章では、『孫子の兵法』に関する中国古代の注釈が数多く取り入れられている。この言葉選びは、翻訳の苦労と、著者のガダルカナルやニュージョージアでの経験を想起させるものだろう。他の『孫子』翻訳者には、グリフィスの長い軍事経験から得られた洞察が欠けている。 

また、『ガダルカナルの戦い』(The Battle for Guadalcanal)、『中国人民解放軍』(The Chinese People's Liberation Army)、そして最後の主著となった独立戦争に関する本『In Defense of the Public Liberty』も執筆している。外交問題評議会(Council on Foreign Relations)の中国研究(China Study)研究員であり、ロンドンの国防研究所(Institute for Defense Studies)のメンバーでもあった。グリフィス将軍は、『ニューヨーカー』、『サタデー・イブニング・ポスト』、『米海軍研究所紀要』、『タウン&カントリー』、『海兵隊報』、『フォーリン・アフェアーズ』などの雑誌に幅広く寄稿。また、陸軍士官学校、米国陸軍士官学校、外交政策協会、海兵隊学校などでも広く講義を行っている。グリフィス将軍は、第1海兵襲撃隊協会と第1海兵師団協会の終身会員であった。1983年3月27日、ロードアイランド州ニューポートで突然死去。
 

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